2003年5月25日(日)
笹子峠からは甲府盆地に向かって下り。笹子峠の旧道はところどころ舗装が荒れている箇所はあるが、快適なおおむね快適だ。荒れた場所は減速しながら降りていく。 国道20号に戻ってからはさらにスピードが上がる。
国道20号の甲府バイパスに入っても、先を走る助さんの快調な引きは衰えを知らない。追い風もあってスピードが上がる。甲府市内に入ると交通量は増えてくるがクルマに混じって陸橋を越えて順調に先に進む。
だいぶ日が差してきて気温が上がってきた。 勢いに乗って甲府の西の外れ、竜王まで来る。コンビニで停止し、 ここで4度目の休憩。10時30分、136km。お握り3個、(チキンライス、梅、鮭)を摂り、補給用のカロリーメイトのゼリーを買う。さらに走行中の補給としてグリコCCD粉末を水で溶き水筒に入れる。
このあたりが甲府盆地の西端で、この付近から八ヶ岳山麓へ向けてのダラダラとした登りが始まるので食べておかないともたないと思ったのだ。
自分としてはしっかり補給したつもりではあったが、八ヶ岳山麓へ向けてのダラダラの登りで予想外に消耗してしまい、甲州と信州の国境にも近い、白州の手前、武川あたりでいよいよ走れなくなってしまう。沿道にサントリーやシャトレーゼの工場があるあたりで本当に停まりそうになる。 踏めない、力が入らない。空腹という感覚はないのだが、実際には血糖値が下がり切っているのだろうか。
自分の身体なのに自分のカラダではないような感覚である。 まったく身体がいうことを聞かない。サイクルメーターの示す速度は時速10km以下のまま。助さんはとっくのとうに見えなくなっている。
そんな中、あいかわらずわれわれは国道20号・甲州街道を西に向かっている。かつて甲斐の武将、武田信虎、信玄(信晴)親子が信州攻略に使ったのもこの道だろうかと思う。私はとくだん歴史にくわしいわけではないが、しばし走りながら空想にふける。信玄の子、武田勝頼が、家臣の真田真幸らにつくらせ、完成間際に織田の軍勢が信濃、甲州に侵攻してきたため(「木曽、伊奈、安曇には織田の軍が満ち満ちている」(注1))、せっかく新築した城に火を放って敗走したといわれる(注2)新府城(しんぷじょう・・・ちかくには中央本線の新府駅という駅がある)の城址の近くも通過している。
甲府周辺で増えた交通量もこのあたり・・白州付近・・まで来ると激減し、交通量は少ない。このあたりは水がおいしいのだ。八ヶ岳に向かって登っていくと、三分一湧水がある。沿道には食品や酒造工場がいくつもある。日本酒、七賢の山梨銘醸、先にあげたシャトレーゼ(菓子)、サントリー(ウイスキーやミネラル水)、そして今(2019年5月)、googleの地図をみると、コカコーラの工場まである。コカコーラの工場は、私の自宅の近くだと東久留米にもあるけれど、水のいいところにつくったとしか思えない。まあ、マイカーで帰省する際には立ち寄るポイントではあるが、脳が低血糖になっているので、すでに脳内が戦国時代にタイムスリップしてしまっている。大丈夫か(笑)。
白州国界(山梨・長野県境)のコンビニで助さんが待っていてくれる。 ここで、5度目の休憩。12時35分、169km。どうやら、わが胃袋は流動食しか受けつけないようだ。仕方なくミカンゼリーと小さいカップヨーグルトを摂り、横になってしばらく休む。
やっとの思いで県境を超え、長野県に入る。県の境を越えても何が変わるわけではない。しかし気分的には非常に楽になる。 長距離サイクリングでいかにメンタルが大事であるかという余談ではあるが、松本在住の知人が静岡の実家までロードバイク(自転車)で200km近くを自走で帰省していたときのこと。スタート地点の松本から、走れども走れども、すれ違う自動車のナンバープレートの地名表示が「松本」ナンバーなので、進んでいる気がしなくて気分的にめげたという。今は、諏訪ナンバーがご当地ナンバーとして存在するが、当時は南信の諏訪も伊那も飯田も、長野県境までずっと松本ナンバーだったはずだ。
そんなこんなで 富士見峠までダラダラとした登りが続く。先ほどの補給でいくらか血糖値があがったか、身体の調子が回復してきたようである。
諏訪の手前で国道20号を左折して、バイパスに入り、諏訪湖の湖岸に出る。諏訪市街の渋滞を回避する意図である。下諏訪湖岸通りのコンビニで大休止。14時00分、201km。
(注1)新田次郎 武田勝頼 (三)空の巻 1983年 講談社 講談社文庫 p.370
(注)新田次郎 武田勝頼 (三)空の巻 1983年 講談社 講談社文庫 p.371
諏訪から安曇野まで